(承前)「貧乏の極にある」「奈落の底に落ち込むようでした」
こうした小池の言葉は決して、貸した金を返してもらうためのハッタリや演技ではなかった。山田慶一に繰り返し金を貸し続け、返済の埒が空かないことが判明しても、小池は山田を責め立て、追い込むようなことはしなかった。
山田にも真摯な部分があるはずだと一縷の望みをつなぎ、自分の生活費をやりくりするため、郷里・新潟県加茂市の土地などを売り払った。
だが遂に「貧乏の極みに達し」てしまったのだった。手紙の引用を続けよう。
■―――――――――――――――――――― 【著者】田中広美(ジャーナリスト) 【写真】2007年10月、家宅捜索のため、「パシフィックコンサルタンツインターナショナル」のグループ企業が入るビルに入る東京地検の係官ら(撮影 共同通信)
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「山田には連絡は付きません。」との事でしたので、霧島さんに事情を話したところ、霧島さんは「私が車を運転して羽田飛行場まで迎えに行って、お二人を病院までお届け致しますし、山田には私の方から、ちゃんと報告しますので、必ず責任を持って病院までお届けします。」と言って下さったので、私は霧島さんに甘えてお願いを致しました。
その日の夕方、貴殿から電話があり、私は霧島さんにお世話になったことを報告し、貴殿に連絡が付かないまま、つまり、貴殿の了解無しに勝手に霧島さんに物事を頼み、車と時間を使わせて拘束してしまったことをお詫び申し上げ、感謝の言葉を貴殿に申し述べました。
これに対して貴殿の方からは、この霧島さんを勝手に使ったことを心良く了解する言葉と、病院の費用の工面をもう少し待ってくれという短いお話しがありましたので、私としては、霧島さんとの事が有った話しの後なので「解りました、お待ちしますので宜しくお願い致します。」としか答えられませんでした
不義理の限りを尽くす相手、その運転手の善意に対して、誠心誠意の謝罪と感謝の言葉を書き連ねる。そんな小池を笑う人もいるだろう。だが、いくら嘲笑されようと、小池とはそんな男なのだ。だからこそ、小池と付き合った企業の総務担当者に、事件後も小池を慕う者がいるのも納得がいく。
相手を決して不愉快にさせない。そのためには細心の気配りを行う。そんな小池の態度を計略的、作為的と見る者もいる。確かに、様々な経験を通して後天的に獲得した作法かもしれないが、それを死ぬまで貫けば、そうした性格は「天賦」のものだと言えるのではないだろうか。
「深い人間不信」に陥る小池隆一
小池の記憶は驚くほど細部まで鮮明だ。そして恐ろしいほど几帳面な性格が、それを強化している。山田との一件だけでなく、自身が関わったこと、自身の耳に入ってきた情報は会話も含めて極めて細かく整理し、メモを作成している。
その積み重ねは、取材を生業とする新聞記者や週刊誌記者、編集者などのノートやメモでさえも敵わないほど、詳細で丁寧なのだ。
しかもメモは、やりとりが行われたり、場面を見聞したりした直後にファイリングされている。正確性は極めて高く、録音に等しいレベルだ。
だからこそ小池の回想は、思い込みや勘違いが非常に少なく、再現性と信憑性が高いように思えるのだ。
山田に送った手紙にも含まれているが、場面の再現が非常に細かい。なるほど、小池らしい正確性なのだ。だからこそ一層、小池が追い詰められた状況は不憫に思える。自身の記憶を手紙に記すという作業は、辛い内容ならば残酷なものに違いない。
小池は鈍感ではない。手紙を書くことが、身を切るように辛い記憶を鮮明に蘇らせることを充分に理解してもなお、手紙をしたためようとしたのだ。そこには「哀願」より、強い怒りがあっただろう。静かなる怒りが、遂に小池を動かしたのだ。
この直筆の内容証明郵便が18枚にも及んでいるという分量にも、そうした「気」が現れているし、書き綴った内容には「覚悟」が満ちている。
手紙はさらに、切実さを増す。
ところが、その翌日十六日朝、貴殿の方から電話があり「持って来る事になっている人が後から来るから、今日の三時過ぎには連絡します。遅くとも夕方までには連絡しますのでお待ち下さい。」と短い話しで電話が切れました。
私は正直のところ、助かった、これで何とかなると素直に嬉しかったです。
ところが、夕方を過ぎても電話が無いので、少々遅くまで何回も何回も私の方から貴殿の携帯電話に連絡をしましたが、何時も留守番電話になっていました。もちろんメッセージは「電話連絡をお待ちしています。」と吹き込んでおきました。
そして翌二月十七日には、貴殿の方から前日十六日と同じように「昨日は連絡できなくてすみませんでした。今日もう一日待ってて下さい。夕方には連絡しますから、いまチョットお客さんでバタバタしているから」と言って電話が切れました。
それ以後十八日の土曜日から二十三日の木曜日まで毎日毎日、何回も何回も携帯電話に連絡しても、銀座の事務所に連絡しても、自宅に連絡しても、一切連絡が取れないということで、互いの会話が成り立ちません。
もちろん貴殿の携帯の留守番電話には「お電話下さい。お待ち致しております。」とメッセージを入れておりますし、二十二日には、「本日、胃癌の手術が終って、現在ICUに入っています。」という事も吹き込んでおります。
そして、私としては、もう「これは駄目なのかな」という深い人間不信に落ち込んでしまいそうになった、そのとき、二月二十四日金曜日、午前十時三十一分に貴殿の携帯電話から電話があり、「何回も電話を頂いていたことは承知していましたが、電話できなくて済みません。いまお客さんなので三時過ぎにもう一度電話します。」と言って切れました。しかし例によって、それ以後、全く電話は有りません。
この時、私が思ったことは、何時も「現在バタバタしているから後で電話を架け直すから」とか「いまお客さんなので後程電話します」とか「いま電車の中だから後程もう一度電話するから」等々、色々な場面を口実に何時も電話で話し合う姿勢が全く無く、直ぐに切られてしまうことばかりだなという事です。
当然、私は貴殿のお仕事の邪魔をしてはイケナイとか、お話しできない状況であれば仕方のない事として、直ちに「それでは後程、電話をお待ちしています」「後程とは何時頃でしょうか?」と確認したり、「ではお待ちしますので夜中でも朝方でも一日二十四時間、何時でも、御都合の良い時にお電話を下さい。ですから必ず下さいョ。」と念を押したり致しますが、それでも、ほとんどお約束した筈の後程の電話はありません。
しかし、このような、貴殿の方から電話を架けて寄越しながら「いまお客さんだから」とか「いまバタバタしているから」いう科白でサッサと電話を切ってしまい、架けた相手、つまり私に話しをする余裕も時間も与えず、極く短時間で電話を切り上げるという事は、私にとって甚だ失礼な電話であると存じます。日頃から、私は貴殿には「夜中でも朝方でも一日二十四時間、何時でも都合の良い時に、十分に話しができる時に電話を下さい。」と昔から言い続けております。貴殿は私のそうした姿勢・考え方を十分に承知しているにも拘らず、それが実行されることは、ほとんど有りません
実は「詐欺師」への免疫が存在しなかった小池隆一
山田から希望を繋ぐ言葉だけであしらわれている最中に──さすがに極度の不安が募っていたのだろう──私の携帯に小池からの着信回数が増えた。
意外に思われるかもしれないが、小池は「明白な虚偽」に対しては免疫に乏しかった。総会屋も、それこそ任侠の世界でも、一般社会と異なる内容かもしれないが、「質実と信頼」で成り立っているのだ。
約束は守る。義理は果たす。この掟を破った者は信用を失い、世界で〝抹殺〟される。それが小池の前半生を占める世界の作法だった。まして、虚言を弄して相手を窮地に陥れ、それに頬っ被りするなどという人間は企業社会を含め、これまで小池が渡り合ってきた人間の中には皆無に近かった。
もちろん任侠社会で約束を守らなければ、相応の痛手や報復が待っている。企業社会でも同様のことをすれば、経営者は自らの地位を失う危険性がある。手形が代表的だが、何よりも信用で成り立っている世界なのだ。
ある種の盲点だったのかもしれない。「後程電話します」「夕方までには用意できます」などと嘘を言い、延々とシラを切ることができる人間。そんな相手と小池は取引を行ったことがなかった。
鹿児島で山田からの連絡を、ひたすら必死に待ち続けている間、小池は1本の記事を目にする。
在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)は20日、中央常任委員会議長の徐萬述(ソ・マンスル)氏が19日に心不全のため自宅で死去したと発表した。84歳だった。25日午前11時から東京都千代田区富士見2の14の15の朝鮮会館で朝鮮総連葬を行う。葬儀委員長は許宗萬(ホ・ジョンマン)・朝鮮総連中央常任委員会責任副議長。
ここ数年は病気のため、自宅で療養していたという。韓国慶尚北道出身で、1941年に日本に入国。総連幹部の人事などを扱う旧組織局などで活躍。2001年5月に第1副議長から議長に昇格。小泉純一郎元首相と故金正日(キム・ジョンイル)総書記による2度にわたる日朝首脳会談の実現や「在日本大韓民国民団」(民団)との一時的な和解などに関与した。
許責任副議長が政策決定などに影響力をふるう一方、徐氏は今年1月、北朝鮮の金永南(キム・ヨンナム)最高人民会議常任委員長からの新年の祝電を受け取るなど、対外的な窓口役を務めてきた。総連内部では、議長席は当面空席になるとの観測が出ている。
徐氏は、北朝鮮の国会議員にあたる最高人民会議代議員も務めた。日本政府は対北朝鮮制裁の一環として、代議員が北朝鮮に渡航した場合、日本への再入国を認めない措置を取っている。日本政府関係者によれば、徐氏は昨年12月に金正日総書記が死去した際に訪朝を希望したが、制裁措置のため断念したという
(2012年2月20日付朝日新聞デジタル版より)
新聞記事をベタ記事に至るまで隅から隅まで目を通す小池は、この記事に目を留めた。
うんともすんとも連絡してこない山田の行方について様々に頭を巡らせていたのだろう。なおも、決定的に山田に〝騙された〟とは思いたくはない。むしろ、すでにそれで済む状況ではない。妻と義理の母はすでに手術のために東京に行き、入院している。当座、その支払いが確実に迫って来ていた。
もとより、形ばかりは山田にお金の工面を〝哀願〟するかのようにへりくだってはいるが、むしろ山田にこれまで工面してきたのは小池の側だった。しかし、そうした立場を決して振り回さないのが小池の作法である。
記事を見て、小池はこう考え、私に告げた。
「記事を見て気付いたんだけど、朝鮮総連の最高幹部が亡くなったって出てる。だとすると、山田さんは今、電話をかけたくともかけられない状況にあるんじゃないかと思うんだ。最高幹部が亡くなったんだから、おそらく市ヶ谷の朝鮮総連の本部にぐーっと詰めてるんじゃないかな」
私は、その時ばかりは小池に無情な応答をしてしまった。恐らく、小池自身が自分でも疑問に思いながら、それでも一縷の望みを繋ぐために話していたのだろう。同じ立場に直面すれば、誰でもそうなるに違いない。だが私は小池の希望を立ち切ろうとした。
「小池さん、それはないと思いますね。確かに彼は在日で、警察当局もその金の流れを追いかけ続けています。仮に在日であり、北系であったとしても、とりわけ警察の眼だけはことごとく嫌って、足のつくことだけは避けて生きてきた人間が、今、公安当局の監視が一層厳重になっているはずの総連本部に出入りして、ましてやそこに詰めているなんていうのはちょっと考えにくいですよ。それに……もし仮に詰めていたとしても、一本の電話もできない状況というのはありうるのでしょうか」
こう告げると、小池はちょっと間をおいて、「それはそうだな……」と呟いた。
小池は、私が言ったような「常識的な言葉」を求めているはずもなかった。少しでも長く、自身に希望があるという可能性を、自分で鼓舞したかっただけなのだ。小池の呟きを聞いた瞬間、私は「しまった」と思った。小池を更に落ち込ませてしまう、無神経な言葉を吐いてしまった。申し訳ないことをしたと反省した。
小池は内容証明に自身で記している通り、昼夜を問わず、電話がかかってくれば、よほどのことが無い限り自分の都合を押してでも、相手の気持ちと言葉に誠実に向き合う。後述するが、2007年暮れにかけて山田が東京地検特捜部の連日の聴取を受け、まもなく〝完落ち〟寸前になりかけたときでさえ、山田を救ったのは、弁護士の内野経一郎ではなく、自身も逮捕という憂き目に遭い、そして特捜部の捜査を受けた経験のある小池であったのかもしれない。
だからこそ、弁護士である内野でさえ、最後は「小池さん、あんたから山田さんに話をしてやってくれないか」と小池を恃んできたのでもあろう。だが、その時とて、小池は結果的には裏切られていた。
東京地検特捜部VS山田慶一「攻防戦」での「助け船」
山田は特捜部が睨む、パシコン側から山田にカネが流れたのではないかという点については、毎日、朝晩の電話で心を預けて見せた小池に対してさえ完全に否定してみせ、小池も、山田が「善意の第三者である」と思えばこそ、山田からの相談に、昼夜を問わずに乗ってきた。
しかし後に、追究の意志を固め、検察側の冒頭陳述書を入手した小池は、山田がパシコン側からカネを受け取っていたことを知る。さらに、それは1回ならず、継続して受け取り続けていたことを知るのだった。
小池がその「欺瞞」を知るのは、2012年夏のことであり、山田が「電話をする」と言いながら、小池を翻弄し続けていた12年2月からさらに半年後のことであった。
だが、内容証明をしたためた2月の時点でも、小池のなかには当然、これまでの山田の〝恃み〟に対して自分は精いっぱい応えてきたという感覚は当然にあった。それをあたかも愚弄するかのごとき、不誠実な対応が小池にはさっぱり理解できない。
<私に言わせれば、お客さんが居る時やバタバタしている時に、何故電話をしてくるのでしょうか?しかも私の方に貴殿に大切な、重要なお話しが有ることを承知していながら、さらには、私が貴殿に重要な用件をお伝えしており、その答えを首を長くして待っている私の心情を十分に承知していながら、何時も会話を十分にできない極く極く短時間で電話を切られるのか非常に疑問に思っております。
しかし一方で、貴殿は時々、私の携帯電話に電話を架けてきて、「携帯電話では、盗聴されると困るので私も私の固定電話から小池さんの固定電話の方へ架け直しますから、何番の方へ架けたらいいでしょうか?」と言ってきて、架け直された固定電話での話しは、なるほど、これは他人様には、とりわけ捜査当局には聞かれたくない話しだなという内容の話しを長々とされて、私に意見を求めたり、判断を求めたり、知恵を絞らせたり、アイディアを出させたりしたことがしばしば有りましたが、貴殿は御自分の大切な話しは時間に関係なく、盗聴を警戒しながら長時間話されることも、ちゃんと実行されてるくせに、他人つまり私の大切な話しは、聞きたくない、結論を出したくない、返事をハッキリと言葉で伝えたくない、放って置けというかの如き電話の対応ではありませんか?
こうした事は、今回に限らず、ここ三~四年前から特に顕著な貴殿の対応スタイルで、貴殿の電話の際の方程式のようなパターンです。
それでも私は今日まで貴殿を信じて疑わずに、自分の信念をブレることなく今日まで頑張って参りました>
12年4月26日付で内容証明郵便で送付されたこの手紙に対して、山田は回答してくることはなかった。たまりかねて電話をかけた小池に山田はこう言い放つ。
「そんなもの、読んでませんよ」
そして、回答を拒絶したともとれる山田の電話からほどなく、小池のところに珍しい電話が入った。弁護士の内野経一郎だった。小池は不穏なものを感じ取った。
「小池さん、最近はね、暴対法の改正だとか、条例の強化だとかで、暴力団が表の世界からは消えていくように見えるけれども、それは結局、うまくかたちを変えて一般の企業にむしろ潜りこんでいるような状況なんだな」
小池には、唐突とも思えるその内野の言葉を瞬時に理解した。
「なるほど、小池、おまえもすねに傷があるんだろう。だったらあまり騒がずに静かにしておれよと、そういうことを匂わせているんだなと思いましたよ。内野先生は頭がいいですからね」
そして、次の言葉が小池のなかに決定的に突き刺さる。
「小池さん、あんたは私のホワイトナイト(救援者)になってくれる人だと思ってたんだけどなあ」
それを聞いて、小池はこう確信した。
「小池よ、おまえあまり山田に触るなよ、と、まあ、そういうことでしょう」
しかし、小池の腹は決まっていた。
「世の理というものはね、軽い木の葉が水に浮かんで、重い石は沈んでしまうんですね。でもね、今、私が陥った状況は、何にも悪いことをしていない私という木の葉が沈んで、むしろ私を食い物にした石が浮かんでしまっている状況です。木の葉を沈めて石が浮かび続けて延命するなんていうのは道理に反する。石が浮かんで木の葉が沈むという不条理を私は見過ごしませんよ。たとえ、あの小池が、と言われようとも、私はそれを見過ごしません。そんな不条理がまかり通れば、社会はおかしいことになる」
石が浮かんで木の葉が沈む――。小池は2012年、自身、70歳になろうとする瞬間、そんな過酷さのなかにいた。
8億円を運んだ男と、中曽根の秘書と、そして千代田区長と
「あの、わたし、8億円を運んだことありますがね、運べるものですね。キャスター付きのバッグに入れて。東京駅前をですね。運べるものですね。重いです。重いですけど、運べるものです」
並大抵のことでは驚かないであろう、居並ぶ紳士たちも、酔狂の言葉だけとも思えないその情景のリアリティーに、さすがに固唾を呑んだ。
民主党の樽床伸二を招いての一席が設けられる以前の09年12月、東京・赤坂の焼肉料理屋・牛村の奥の座敷で、参集した紳士らを前に、こんな話が繰り広げられる。かつて名だたる企業のトップを務めた者たちばかりの席だ。しかし、だからこそ、億単位の現金に自ら手を下した経験などないのかもしれない。
「えー、8億ってバッグに入るの?」
形を変えた追従さながらに、親しげに驚きの声をあげてへりくだってみせる紳士らがいる。
「えー、入ります」
身振り手振りで、1億はこれくらい、8億はこんなものと、腕を広げてみせる。
そこに1人の男が現れる。地下1階のその店に入るのにはいささか難儀であったかもしれない。杖をつき、弱った脚を庇っている。
しかし、そのがっしりした肩幅だけではなく、男がまとう空気は、柔らかくとも、どこか強さに満ちている。
男は名刺を取り出して、初対面の者たちに名刺を差し出す。決して大仰にではなく、さりげなくスマートに、かつ嫌みなく。そこには、男の自信と、そして長いキャリアが顕れて見える。
『劇団四季 顧問 筑比地康夫』──。
とっさに、〝8億をキャスターで運んだ男〟が、名刺交換した紳士らに紹介する。
「中曽根さんの元秘書よ」
「浅利慶太の劇団四季」に留めておいては、その男を登場させた〝8億をキャスターで運んだ男〟、山田慶一の面目が立たないとでもいうように、山田はすぐに、元首相、中曽根康弘の名前を上げる。
あっ、という声にならない声とともに再びツバを吞む紳士らがそこにはいる。
あの中曽根元総理の側近がいる。会に呼ばれた者がそう思った瞬間、山田を知らぬ者は一瞬にして山田の〝凄さ〟を知る。そんな仕掛けなのかもしれない。他人の信用で自身の信用を創る。そんな手腕で叩き上げ、這い上がってきた人間らしい振舞いであり、作法であろう。
時折、カウンターの奥から隙なく細く黒いアイラインを引いたママが顕れ、会の主宰者であろう、山田に話しかける。韓国語だ……。
しかし、山田は一切、そのママとは目を合わせようとしない。それどころか、話しかけているママのほうに顔を傾けようとさえしない。まるで自身の横には誰もいないかのように、である。
そして、その山田の異変にようやく気付いたのか。ママの口から耳慣れた言葉が洩れた。
「……持って来ましょうか」
初めて山田は頷いた。山田が朝鮮人であることは、おそらく居並ぶ紳士らで知らぬ者はいないであろう。すでにその名はウェブサイト上にも溢れ、本名である朝鮮名も〝報道〟されている。しかし、本人が在日であることをあえて語らない以上、山田と相対する者たちがそれをあえて言葉にする必要はない。
その店のママは、かつて山田の〝これ〟だったと、小指を立てて教える者があった。
ママは山田との間では、いつもの朝鮮語で話しかけてしまったのだろう。しかし、それに朝鮮語で応じることは、山田にとっては恥をかかせられるようなものだったのかもしれない。
ようやく日本語で何事かを話すやいなや、ママが素早くその場を去ったのと同時に、山田が大きな声で参集した一同に再び話しかけた。
「さあ、皆さん、冷めちゃいますよ。そっち、お酒、足りてますか。お肉、とる? なんでも言ってくださいね」
韓国語で話しかけるママの横でこわばった顔を崩さなかった山田に再び愛想が戻り、相好を崩す。
そこへ、店の従業員だろう、10代に見えなくもない若い女性が慣れない手つきで、盆に水割り用の氷を載せて山田の脇に滑り込む。先ほどまで、ママの語りかけを執拗に無視していた山田のもとにあてがわれたかの如き、うら若い女性の登場に、山田は打って変わって舐めるような視線を注いだ。
そしてこう言った。
「かわいいねえ―」
首をかしげてもう一言。
「かわいいねえー」
若い女性もやはり朝鮮の女性だろうか。細面で脚は長く、すらっとしたその姿は、いかにも日本人離れした美しさに見える。若さだけではない、伝統的な美形を醸している。
盆から渡した氷受けを受け取り、その場を去ろうとする背中を、山田の視線はまだ追っていた。
女もあまりの直截的な眼差しに照れたのだろうか。カウンターに走り戻ると、カウンターの内側にいた若い男と朝鮮語で二言、三言、笑いながら言葉を交わした。
その日、山田が常々付き合いがある者を集めて忘年会を開くとの情報を得ていた捜査筋の男女2人は、開け放った座敷から僅かの距離にあるテーブル席で、飛び込み客などほとんどいないであろうその店の一隅に交代に飛び込み、この宴に参集する人間たちの様子を伺っていた。
山田たちはすっかり出来あがり、そこに自分たちを監視する者がいることにはまったく気付いていないようだった。
座敷2つをつなげられた宴会は続く。若い従業員にねっとりした視線を送っていたのに気付いたのだろうか。初老の紳士の声が響いた。
「山ちゃんは、奥さんがいっぱいいるからなあー」と、ひときわ親しげな声が上がる。
東京都千代田区の区長、石川雅巳だ。
(第16回につづく)