昭和の日本映画界を代表する美人女優・原節子の訃報が伝えられ、波紋を広げている。 9月5日に既に亡くなっていたが、近親者のみで葬儀、納骨がなされ一般に報道されるまでには2か月以上が経過した。 原が住んでいた鎌倉の近隣住民が、最近彼女を見かけないという話などからマスコミが取材に動き、ようやく明らかになった。原の親族は、その死をすぐには公にしなかった。隠せるならば、まだまだ隠そうとしていた節もある。
原をめぐる情報は、全てが神秘のヴェールに包まれている。『東京物語』などの小津安二郎監督作品で世界的にも知られる女優であり、戦前から日本映画界のトップスターだが、その生涯はあまりに謎が多い。
■〝永遠の処女〟のキャッチコピーを鼻で笑っていた原節子
昭和10年、14歳で女学校を中退し日活多摩川撮影所に入社。15歳で『ためらふ勿れ若人よ』(田口哲監督)で映画デビューを果たしたが、この映画ほか初期作品のフィルムの多くが現存しない。近年、『魂を投げろ』(田口哲監督)など初期出演作数本が発見されマニアやファンの間で話題になった。小津作品のほか黒澤明、成瀬巳喜男などの監督作品に出演、往年の映画ファンの目にはその美貌が焼き付いている。 しかし、原は、少女時代からスターだったというわけではない。16歳でヒロインとして出演した日独合作映画の大作『新しき土』(アーノルド・ファンク/伊丹万作監督)は、ナチス・ドイツと神国日本とを結ぶ文化交流の中から誕生した伝説的な国策映画である。『新しき土』には、アジアの幽玄なる神秘の国・日本を、欧米をはじめ世界中にアピールする狙いがあったといわれる。 ヒロインを演じた若き日の原は、ファンに東京駅で見送られて出発、建国まもない満州に映画の宣伝を兼ねて渡った。さらにそのまま大陸経由で合作の相手であるドイツに向かい、ヒトラーやゲッペルスなどナチス一党から熱烈な歓迎を受けている。 旅行中は映画界入りを勧めたといわれる義兄の映画監督、熊谷久虎が、終始原の傍にあった。『新しき土』出演を機に、原は熊谷とともに日活から東宝へ移籍した。 以後、戦意高揚映画を多く作った東宝で、『ハワイ・マレー沖海戦』などの戦争映画に多く出演する。 戦時中、原は戦意高揚映画の可憐な少女スターだった。当時の日本人としては長身で体格の良い彼女は、欧米でもスターになれると言われた。目鼻立ちのはっきりした顔は、往年のハリウッドスターやドイツ映画の人気女優にも負けない美しさだった。 だが、原が本当に世界的にも注目されたのは戦後だった。 後年、小津作品が世界的に評価され、純日本的な女性を演じている日本人離れした美人女優として、原が世界的に注目されるようになったのである。 小津安二郎監督は、原を『晩春』『麦秋』『東京物語』『東京暮色』『秋日和』『小早川家の秋』の6作品で起用したのみだが、小津とのコンビワークの印象が強いのは、近年小津作品の世界的知名度が高くなる一方だからだろう。 小津は原のことを「原君は、演技が上手いね」と言い、いつも誉めながら彼女を演出したという。小津作品で原が演じたのは、事情から婚期が遅れながらも父親との間に深い絆を持った娘であり、義理の父親に尽くす未亡人だった。小津作品で結婚しない女性を演じた頃から、「永遠の処女」という原のイメージがキャッチコピーのように形成された。 「‶永遠の処女〟とか‶神秘の女優〟なんて、名前はジャーナリズムが勝手につけてくれたものですから責任は負わないけど、私だってカゼを引けばハナも出るし、寝不足なら目ヤニも出るし、別にカスミを食べて生きているわけじゃないんですよ」
かつて、ある新聞記者の取材に答えた原の言葉である。
■原節子にとって「本命」だった男は2人?
戦前のように処女性が問われない戦後という時代にあって、小津映画の原は、戦前のノスタルジーを感じさせる魅惑的な女性に感じられた。 小津と原が結婚するのではないかというゴシップは、映画の撮影中から書かれた。小津は、親友で戦死した山中貞雄監督作品で見た原に惚れ込み、彼女を物語の象徴的な役で設定し魅力を引き出した。 小津と原のコンビワークがピークに達した時期に、小津はこの世を去る。間もなく原も42歳の若さで女優を引退してしまう。この符号が、小津の通夜に突然現れた原が玄関で大泣きしたという逸話、小津が母との二人暮らしで終生結婚をしなかったことなどとともに、二人の恋愛説がむしろ小津の死後に広められた。 生前の小津は、原と自分との結婚説を、逆に利用して映画の宣伝に使っていた。
その後、小津監督の恋心が原を難しい役にキャスティングしたという誤解に発展した。だが、近年では、生前の小津の男女関係が詳しく検証されるようになり、原と小津の恋も結婚も、当時のマスコミがファンとともに作り上げた昭和のメルヘンであることが明白になりつつある。
■―――――――――――――――――――― 【購読記事の文字数】約3200字 【写真】故・原節子(本名・会田昌江)氏(撮影 時事通信)
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